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保守反動が論壇を席巻する中左翼は肩身が狭い▼しかし左翼でいることは恥ではない▼保守思想など左翼思想のアンチテーゼに過ぎないのである▼骨太の左翼思想ここにあり
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一般的な反対論の中心は「犯罪抑止力に対する疑問」と「冤罪の危険」である。

まず「犯罪抑止力に対する疑問」である。犯罪抑止力に疑問があることは確かである。そして刑罰が人権侵害であることは近代立憲論における定説である。そこで死刑廃止派は抑止効果のない人権侵害を極力避けるべきであるとして究極の人権侵害ともいえる死刑に反対するのである。一見論理的に見えるがこれは詭弁に近い。

「刑罰による犯罪抑止」は「刑罰の機能」に関する議論である。この議論には刑罰の本質に対する考察が欠落している。刑罰の本質論には応報刑論と教育刑論とがある。それらを通じての社会秩序維持は刑罰の機能であり本質ではない。本質を無視するかの如き議論は詭弁といわれても仕方がない。

では刑罰の本質論から死刑はどう考えられるのか。第一に応報刑論の面からすれば例えば殺人に対して死刑というのは問題ないはずである。第二に教育刑論の面からすれば死刑を執行すれば教育は不可能であり死刑は許されないということになる。つまり応報刑論と教育刑論のせめぎ合いの中で死刑の是非は議論されねばならないわけである。

「目には目を歯には歯を」に代表されるように刑罰は元々応報刑論を中心としてきた。しかし近代に至り教育刑論が台頭した。しかし刑罰の本質として教育刑論を強調しすぎると教育不能の者はどんな罪であれ一生刑務所に閉じこめろということにもなりかねない。故に現代においても教育刑論を徹底することは不適切であり応報刑論の役割は重要である。したがって刑罰の本質論から死刑を廃止することはできない。

つぎに、「冤罪の危険」であるがこれは簡単である。例えば池田小学校事件の宅間守の如き冤罪の危険のない犯罪を念頭に置けばいい。そうすれば「冤罪の危険」をもって死刑を廃止せよという論理的がいかに飛躍したものであるかがわかる。この論拠は100%確実な証拠のある犯罪者以外の死刑廃止の根拠にはなり得ても100%確実な犯罪者の死刑廃止の根拠にはならないのである。

(つづく)
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